昭和四十六年十月二十二日
御神訓一、信心する人は、何事にも真心になれよ
信心する人は何事にも真心になれよ、真心とはまごころとあります、信心とは信ずる心とある様に、何事にも真心になれよと言う事は、成事にもまごころになれよと言う真心を使ってあります、真心位神様の心を捉えると言うでしょうか、神様の心に叶うと言うでしょうか、通うと言う事にもなるでしょう、ですから真心の厚い人、いわゆる真心の人そう言う真心とは、と真心をめざして貰う真心を愈々改まりに改まり、清まりに清まらせて頂く、そこから自ずと生まれる心とでも申しましょうか、私はこんなに真心にをとるのに、相手には通じなかったと、言う様な事をよく言います、私は真心でした等と、けどもそれが相手に喜ばれなかったり、通わなかったりしたならば、それはまだまだ真心と思っている心に、未だ不 なものが有ったと、私は悟らなければならんとですから真心を、追求して行くと言う事が、信心だと言う事にもなる、信心する人はその真心を、愈々真心として行くと、所謂本当の真心として、本当なものにして行くと言うこと、いつも精進させて頂かなければならんと言うことが言えます、この事には真心になけれるけれども、この事には信心になれるけれども、この事には真心になれない。
私ども日常の生活の上にですね、ここのところが段々同じになって来るところが、信心生活だと思います、この事には真心になれる、けれどもこの事には真心にはなれないと、それには何事にも、真心になれよと言う、その何事もと言う事に反する訳です、あの人にも真心で出来るなら、この人にも真心で、接っせなければならないと言う事なのです、そこでその真心と言う、その真心と言うのが如何に神様に通う、又は喜んで頂ける心だと言う事に、なる訳ですが、神様の心を握って放さないと言うか、神様にさっとこう通うて行けれる人と言うか、これは例えば私ども所謂神様対私どもだけで、対人間の場合、そうですね、特に商人の方達に大事だと思う事は、相手のお客様の心をぽっとこう、握って放さない様な、商売人ならその人は素晴らしい商売人になれる、何かそう言うものを持っておる人が有りますね。
ちよっと相手の心を見事にキヤッチするとでも申しましょうかね、一言ものの言い方、表現にもです、相手の心をすっとこう掴む様な表現、それとは反対に何とはなしに、嫌な感じとでも申しますかね、しか与えきらんと言う人もあります、人間いつもかつも心を神に向けておるのが当たり前です、けれども本当なのですけとも、なかなか神様を忘れがちなと言うことも有りますけれども、そう言う例えばね真心をこの人は自分でも知らず知らずに神様に、ぽっと通うたり思うたり言うたり行ったりが普段に出来るのですね。 そう言う私は名人になりたいと思う、使う心が健気な素直な神様すみませんと言うにも、神様有り難う御座いますと、お礼を言うにも神様お願いしますと、申しますでも何かそのお願いが、又はお詫びが又はお願いがですね、するっと神様の心の中に溶け込んで行く様な事が思われる人になりたいです、そんな人が有りますよ、済みませんと詫びておる心の内容がです、そんな人がありますよ、済みませんと詫びておる心の内容がですね、本当に神様がそれがわかったかと、すぐ許して下さる様な、感じの詫びの内容を持っている人がある、願うでもそうです、中々そう言う意味なんですかねあの文男先生や、秋永先生なんかには、まあ名人ですね、何かこう神様からぽんと離れておる様であっても、すっと入って行く時の要領と言うかね、要領と言うとおかしいですけれども、神様の心のかゆいところの一歩手前のところで、只熱心だと言う人もいます。
そうでなくても神様の愈々求めておられるいわゆる痒いところに、さっと手を持って行けれる人がある、それが結局は私は真心とおもうですね、私どもがする事言う事、例え人が余り相手にしない様なんでも、そう言う人は非常に人が大事にしない様な人でも、だいじにします、ですね、だから人が大事にする人なら誰でも大事にしましょううが、人が大事にしない様な人と、例えば大事にする、そう言う時に神様のお喜びを受ける事ができる、神様の感動を受ける事ができる、こちらも有り難う成って行く事が出来る、この辺のところを一つ大事にして行きたいあの事には真心になれるけれどもこの事には真心になれないと言う、このことのところをひとつ大事にせなければいけませんですね、教会では真心になれるけれども、家に帰ったら真心になれないこれが一番多い様ですね、この人がおかげ頂きなさらん筈はないと思うです、教会での御用振りとか、また真心でなさっておる振りから見ると、ところが家に帰ったら教会の在り方と違ったり、又は真心の持って行きどころと言うものを、工夫も何もしないと言う様な事になって来る。
ここでは神様に喜んで頂く信心と言うことを、まあ親先生に喜んで頂く信心と言った様に信心、所謂真心だけでなくて、例えば日常生活の中にも、こう言う事を言っておるが、こう言う事をしておるが果たして親先生が下さろうかと思うて見ると良いです、そこは本当は神様は喜んでくださるだろうかと言う事なんですけど、矢張りそこに神様と言うと、余りにも偉大で大きいですからね、一寸ぼやけて来ますから、こう言う事を言っておるがこう言う事をしておるが、親先生がそれを見なさったり聞きなさったりしたら、どんなに思いなさるだろうか言いなさるだろうか、いや、にがい顔をなさるのじゃなかろうかと、言う様な考え方が、出来ると良いですね、日常生活の上に、私は真心を追求して行くと言うか、求めて行くと言う事は、そう言う経験が大事だと思うです、昨日大祭の後片ずけそれから反省回が昨日御座いましたが、矢張り真心がフルに使われると言う事は、確かにそう言う大きな稽古の一つの対照になるものだと、日頃信心させて頂いておる、真心とこう例えば真心とか真心とかと、言うて信心の稽古を頂いておるのが、どの位大祭大祭と大祭に真心が寄せられるか、自分の信心の自分の信心の言うならテストとしている様なもの、言うならば又神様から試験を求められておる様なものだから、大祭ともなると不浄がかからぬ様にと、御供えものの上にも心を込める、大祭大祭、それでいてもうこれで良いとは思はない、大祭の度に反省会がある、もう昨日等は反省会の必要がない位に今度の大祭はまあゆき届いた事であったと、皆の一致した意見でした、けれどもあそこのところとここのところをもちっと変えたらば、あそこが一寸手落ちだったですねと、と言うところがやっぱり二三は出て参りましたけれども、もうその段々慣れてて来たと言うか大祭を迎えるに当たりましても、仕える頂くに致しましてももう本当に行き届いたお祭りが段々出来るようになった。
それでも矢張り反省会を開いて、と言うのはもうこれで良いと言うのは無いからなんです、いわゆる教祖様のお言葉を借りると、人間氏子の事で御座いますから、どこにお粗末御無礼が有るやら、これで済んだとは思いませんと言う事になる、もうこれは限りがない事、真心と言うのはこれで済んだとは思はないと言う程しのものです、真心一杯でさせて頂いたとこう言うけれども、これで済んだとは思いません、未だ未だどこに人間氏子の事で御座いますから、凡夫の事で御座いますから、どこにお粗末御無礼が有るやらわかりませんと言う様な、その心が神様に通って行くのではないでしょうか、それが真心。 尽くしても又つくしてもつくしても、つくし足りぬがまことなりけり、と言った様なうたがございますがね、だから御大祭の反省会にはヤハリ真がいります、形の上に於いてはもうほとんどもうこれに口上を言う事は無いと言う程しの見事なお祭りが、先日の二十日の御大祭にはそんなものを感じた、けどもあそこのところが一寸手落ちだったですね、あそこのところが一寸改めねばと言うところが、ほんとに僅かでした。
所謂お互いが段々真心になって行っていると言う事、それでいて完璧と言う事は決して無い、それでも足りないのを愈々表して行く、大祭なら大祭に表して行く事が真心、だからそう言う心の状態をです、お互い日常生活の上に持って行かねばならないと言う事なのです、主人に対しても家内に対しても、親に対しても、子供に対しても、お客様に対しても、友人に対しても、自分の周囲周辺の人達の上にでも、事柄の上にでも此れで済んだとは思わないと言う様な、真心を表して行こうと言う願いをもって、行く事が私は信心、何事にも真心になれよと言うのはそう言う事。
信心するものは何事にも信心になれよ、そこでただ今申します様に、こう言う事を言うておるがしておるが、果たして親先生が喜んで下さるだろうかと、自分の言うておる事をしておる事を、反省してみる思うてみる事が大事だと、それがそのまま神様が喜んで下さるだろうかと言う事に通じる事です、昨日その反省会が始まろうとする一寸前でした、久保山茂さんがやって参りましてから、感動一杯でそれこそ、今度若先生の結婚式に何か贐けをと、思わして貰いましたが、まあこれは 細なものですけれどもと言うて持って見えました、見事な贐けを持って参拝されました、丁度私も若先生も、若先生のお部屋におりましたから、それを受けさせて頂いたのですけども、茂さんがこう言う事を言うとります、本当に父が生存中、父に喜んでいただけれると言った様な事の信心が何一つ出来とりませんでしたので、父の御霊が喜んでくれる様な贐けをと思わして貰いました。
もう私も感動しましたです、父の生存中に父が喜んで下さる様な信心を、出来ておりませんでしたので、それならその人がどう言う信心をしておったかと、皆さんの御承知の通りです、例えて申しますとここの教会設立のためにもうそれこそ身を粉にする様な信心修行をされましたですね、そしてとうとう教会設立を見ずして亡くなられました、この御造営の場合でもそうでした、このお広前の天井がここだけが、出来上がりました時に親先生一遍行って御覧なさいませ、もうあの天井の素晴らしさ、もう私はあの下で感動しましたと、言ってこの天井の出来たばっかりの時にですね、毎日見に来られるのですよね、御奉仕が終わるとそしてそれを一々報告されて、そう言う風にいってそれも矢張りその落成を見ずして、成就を見ずして、半ばにして亡くなられた。
子供達一人一人の上に於いても、そうでしたけれども特に長男である若先生のためにはもう、勉強のことから信心のことから、日頃の所謂二代を継がれる、若先生としてはと言うて、言うなら苦い事の言えるのは久保山先生だけでした、ですから今度の結婚式に若し東京の小西から嫁を貰うと言う事を若し生存中に、聞かれたらもうそれこそどんなに喜ばれたかわからん、昨日若先生が言っておりましたが、先日道具を持って来ております中に若先生が沢山の手紙を書いている、それを良子さんが全部持って来ている、それが全部言うなら御理解である、此れも一冊の本に纏めたい位ある、自分も一生懸命、ですからもう良子さんが若先生の手紙でこの人は信心になっとると、自分も言いますし周囲のものが言ってます。 若先生も手紙の交流が始まってから、良子さんがかわったのは、久保山のお母さんがあちらへ行ってから、良子さんが変わったのには驚く、店全体の者がいってる、所謂だいたいなら信心の無い家庭ですけど、信心のあるものがずっとあそこに行った、ならば公子さんが行き、須磨子さんが行き、稔るさんが居ると言うのですから、然その雰囲気の中で若先生の手紙、そのみ教えを、御理解を本気で、もう修業精神も非常に強い、そう言う事を久保山先生、こちらに歩きにくる度に見ておられてからです、まあ暗にこう言う女性を若先生の奥さんにしたならば、まあどうじゃろうかと言う考えが、あられたのか知りません、久保山先生が良子さんに宛てて出して居られる、高校在学時代の手紙が出て来たと言うのです、それに、良子さん貴方は高校卒業されたら、一遍椛目に出て見えませんかと、二年間ばかりみっちり信心の修行をなさったらどうですかと、書いてあったと言うのです、ですから暗に例えば久保山先生の心の中にはね、良子さんがこの調子で信心を進めて行くならば、此処の二代をつぐ人の奥さんに相応しい事ではなかろうかと、思っておられるのではなかろうかと、私はそれを感じました。
ですから茂さんが言っておるのは言うならば、生前に親の喜ぶ信心も出来ていなかったと言うのは、信心はしておったけれども、親の心を悟って、信心すると言う事ではすかったと言う事です、ですから若先生の結婚と言う事でも、久保山先生の頭の中には心の中には一つの、願いと言うものがあったに違いない、だから父が今生きておるならばこれをどうするのであろうか、これをどう思うであろうかと言う事を焦点にして、この贐を買わして貰ったと言うのである、私は真心とはそんなものだと思う、只見栄、只形だけよければと言った様なものではなくて、自分じゃなくて相手じゃなくて、こうしたならば父の御霊が喜ぶであろうところに、焦点が置かれてあったところに、その贐の素晴らしさがあると思うです。
私は今日みなさんに分かって頂きたいのは、その事なんです、信心するものは何事にも真心になれよと、さそこでなんです、なら茂さんが親に対して家内に対して、子供に対して、自分の仕事に対して、父の御霊がこう思うておる、こう ておると見て聞いて、御霊がどんな見方をするであろうかと言う様な事を前提にして、事を運ばして貰う、思わして貰う、行わして貰うと言うことになったり、それが私は真心になる、信心するものは何事にも真心になれよとは、そう言う様な事だとおもう、神様の前だけ親先生の前だけ、親先生が喜ぶ、どうしたら喜ぶじゃろうか、と言うのが私の前、お広前の前だけでなくて、銘々の職場とか、又は家庭とかに在って、その思いが出来ると言う事が、何事にも信心になれよと言う事だと思う、どうぞ一つお道の信心はその真、又は真心、又はそれが段々成長してまいりまして、所謂神心と言うことになって参りましょう、その神心がです、至るところで使われる、どこででも行えれるところの信心、そういう信心を神様は求めておられる そう言う事をいつまでいつも、出来ないでも考えておる人がです、きっと神様の心の中に通って行けれる。
神様の心を掴んで離さない様な人とは、そう言う人ではなかろうかと、私は今日は思わして頂きます、信心する人は何事にも真心になれよ、信心とは勿論信心する心、何事にもと言うところが内外ともに、御広前であろうが、自分の家庭であろうが、どこになってもどんな場合でもと言う事である、真心になれよとは、まごころになれよと教えておられます、どうぞ。